シングル スマイル

目指すのはジャンガリアンな生き様

優しいフリ

奥さん達の話題といえば旦那のグチなんてのも少なからず有ろうかと思うけれど、奥さんを通じてそんな他人の家庭事情を垣間見る時がある。面白おかしい爆笑夫婦漫才みたいな話も有れば、笑えない話も有って、例えばある人の家庭では旦那は全然子供の相手をせず、子供が小さくて夜泣きが大変な時も「うるさい!何とかしろ!」と怒鳴るだけで、休日も自分の趣味に明け暮れて、子供は父親に寄り付かないとか。そんな話を聞いて僕は、「それじゃ父親が居なくても構わないじゃないか。」と、つい言ってしまったのだけれど、いや、僕は他人の家庭事情をとやかく言える立場なのだろうか? と言うか、何様? と言うか、何者? と言うか、僕は一体誰?
僕は、なるべく子供と接するよう努力してきたつもり。子供が親を必要とする期間は短くて、その間に親が果たす役割も大きいから、幼少の頃は父親母親共に密接に子供と関わり合うべきだ、というのは以前も少し書いたはずだけれど、だから子供をお風呂に入れたり、ご飯を食べさせたり、トイレに連れて行ったり、一緒に寝たり、休日は家族で出掛けたり、子供が寝静まってから暗い中いそいそとバイクを直したり、つまり、子供と共に過ごしている。でも、それって僕自身の本心なのかな。様々なメディアから入ってくる「あるべき父親像」と対比させながら、僕の中で理想的な父親像を模造してるんじゃないかな。そもそも、今の奥さんと付き合い、結婚したから僕は今の僕なのであって、相手がもっと違うタイプの人、例えばとても大人しくて物静かな人だったなら、僕もあるいは前出のお父さんと変わらなかったかもしれない。本当の僕って、有って無い様なものなのかもしれない。
奥さんや子供に、時々「パパが眠たい時は恐い。」と、言われるんだけれど、眠たくて思考がマヒして配慮に欠ける状態になると、本性が出てしまうのかもしれない。その姿こそが本当の僕自身なのかもしれなくて、生まれもっての性格同様、僕の中の中核を成す基本的な部分は昔から何も変わっていないのかもしれない。そして、昼間の上辺の僕は、その時々の状況によって変わり得る不確定なものでしかなくて、単に良い旦那さん、良い父親を装って、優しいフリをしているだけなのかもしれない。
だけど、純粋無垢な小さな瞳で「パパ優しいから好き。」と、言われれば、僕は優しいフリを続けるよ。せめて、子供達が僕を毛嫌いするまでは。