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目指すのはジャンガリアンな生き様

 悟り

とある人のお通夜に行きました。礼服を着て、押し黙って、お坊さんが上げるお経を聞きながら、一体コレにどれ程の意味が有るのだろう、などと考えていました。コレというのは通夜とか葬儀の事ではなく、お坊さんが上げるお経の事です。
とあるお寺のお坊さんは、先日新車の外車に買い換えました。その他にもファミリーカーも新車に買い替えたようです。また、とある人はお寺から事有る毎に多額の寄付金を要求されると言っていました。例えばそれが、お寺の改修費とか、仏像の補修費とか、経典や資料の購入費とかいうのなら分かります。確かにその寄付金も門扉か何かの建替えの費用だとか言っていましたが、そこでお坊さんは「○○のお寺では**円掛っているので、ウチとしてはそれ以上のものでなければ・・」と言うらしいのです。お坊さんから寄付金の打ち合わせの時に聞いた話なのでしょうから、それはきっと事実なのでしょう。僕はそれを聞いて呆れ果てて、そんなお寺の檀家にならざるを得ないそのとある人に心底同情しました。
今時お坊さんだからといって、酒を飲むなとか、肉を食うなとか、贅沢するなとか、そんな事を言う気もありません。もうこの際車だって何を買ったって良いです。だけど、よそのお寺と比べて負けられないとか、そういう考え方をされるのはいくらなんでもガッカリします。贅沢な生活をするにしても、信念を持ってやって欲しいのです。坊さんなんて学校出てお経上げるだけの、物欲と金銭欲にまみれたただの俗人じゃありませんか。どうせほとんどが世襲制だから、坊さんだからって立派な考え方をする訳でも人徳が有る訳でもないんだ。ならば、そんな人が上げるお経に一体どれだけの価値が有るというのでしょう。もちろん、そんなお坊さんばかりではないと思います。だけど、お坊さんは大抵良い車に乗っています。質素な生活感を漂わせてもいません。今時の坊さんに期待する方が間違っているのかもしれません。だけど、それならばご利益が無さそうなのに多額のお布施や寄付金を払うのも馬鹿げた行為に思えるのです。
そんな事なら別に通夜や葬式に坊さん居なくたって構わないじゃないか、と思うのですが、さすがに葬儀にお坊さんが居ないなんて事は見た事も聞いた事もありません。そんな事は非常識なのでしょう。そして、そういう抗えないしきたりと檀家という束縛にあぐらをかいているのでしょう。お坊さんの生活環境は、時代に合わせて変えられてきました。酒も飲むし、肉も食うし、セックスだってするし、車だって乗るし、海外旅経だって行くのです。ならば無宗教と言われる今の時代にあっても都合の良い所だけしきたりを重んじる様な振りをして束縛するのも止めにして欲しいのです。これからは、お寺もオープンにして価格競争やサービスで競争していけば良いんです。勤勉なお坊さんとか、向上心のあるお坊さんとか、人徳があるお坊さんとか、どうせならそういう頑張っているお坊さんに世話になりたいです。やむを得ず頑張っていないお坊さんの世話になるのなら、御利益は期待できそうに無いんだからお布施はなるべく抑えたいのです。もし許されるのなら、誰だってそうしたいと思うでしょ。こんな事なら、もういっそのこと葬儀なんて無しで良いやと思えてしまいます。僕が死んだ時は、ほんと葬儀などしてくれなくて良いです。
通夜でお経を上げた後、お坊さんからお説教がありましたが、何が言いたいのか良く分からない内容で、もう少し気の利いた事を言えないんだろうかと思え、それが酷く無意味で無駄な時間に感じられました。それならまだ自分で経を読んだ方がまだマシの様に思えてなりません。どうせ人は誰でも何時かは死ぬんだし、それなら檀家や周りの人にどう思われ様が好き勝手に生きた方が得だ、という考え方も1つの悟りなのかもしれませんけどね。