シングル スマイル

目指すのはジャンガリアンな生き様

あの頃のまま僕は

 

 

言いたいこと、書きたいことはいくらでも有るんだ。でも、「書きたい事」=「書ける事」では無いんだよね。結局、随分と毒気が抜かれた当たり障りない事しか書けない。

 

 

以前書いた記事が見つけられないので、改めて考え直すと共にもう一度まとめてみる。

 

人は必ずいつか死にます。誰でも。そんな当たり前で逃れられない自然の摂理を知らない人は居ないけど、それを切実に実感している人は多くない。それは僕自身も含めて。

1つ目のキッカケは、会社でとても世話になった人が亡くなった時の事。「死んでしまったらもう二度と話せない」っていう当たり前の事が実感出来ていなかった。激しく後悔した。

もう1つのキッカケは、ハムスターを飼った事。これは僕の生き方の指標にするべくブログのタイトルにも書いてある。ハムスターの様に、死ぬ間際まで滑車を回し続けたい。

その後震災も有った。みんな自分自身が、自分の家族や大切な人が生きているだけで、ただそれだけで幸せだという事をまざまざと見せつけられたというのに、数年経って平常に戻ってしまった。これは主な一例というだけでこれだけではないんだけど、そんな事から僕はこのままではダメだと思った。このままでは、10年後、20年後に必ず後悔する。

世の中には驚異的な行動力、実行力を持った人が居るもので、バックパッカーで世界を周ったり、自転車で日本を巡ったりというのは割とメジャーな部類で、仕事で起業したり、ネットワークを構築したり、他にももっとマイナーでイッちゃってる様な人も沢山居るんだけど、残念ながら僕にはそんな行動力が無い。面倒くさがりで、夏休みの宿題はいつも8月末に絶望的な気分でやったクチだ。大人になった今でもその性格は大して変わってない。だから、やるべき事、やらなければいけない事、やりたい事でさえ先延ばしにしてしまいがちだ。だけど、いざやらなければいけな段になってからでは遅いかもれない。「定年後に第二の人生を」なんて悠長で無責任な言葉に騙されちゃいけない。その時になってやりたい事を実行できるだけの健康体で居られるか分からないし、そもそも生きているかさえ誰にも分からないんだから。良い人は早死にするのが世の常ってものだ。良い人の僕はきっと早死にする。

 自分が死ぬ事は分かっていても、いつ死ぬかは分からない。だから死を切実に感じる事も無い。切迫していないから物事を先延ばしにしてしまう。 だから、とりあえず僕は50歳で死ぬ事にした。実際に死ぬ訳じゃない。「余命は50歳まで」と自分の心の中で勝手に宣告してみただけ。そうでもしないと腰が重い僕はなかなかアクションを起こせない。そう決めたのは多分5、6年くらい前だと思う。それから面倒くさがりながらに少しだけ頑張って重い腰を上げてきた。50になっても生きていれば次は55にすれば良いし、50になる前に死んでしまっても、とりあえず出来るだけの努力はしただろうって後悔は少なくて済む。

これ、我ながら凄く良い考え方だなぁって思っていたんだけど、1つだけ重大なミスが有った。「自分の年齢を忘れがちだ」っていう事だ。いや、自分の歳くらいは分かってるよ。分かっているんだけど、感覚的な年齢というか、僕は何となく35歳辺りから自分が歳をくっているという感覚が無くなってしまっている。永遠の35歳と言えば聞こえは良いけど、単に自分を客観視出来ていない痛いおっさんでしかなくて、身体能力は衰え、35歳から精神的な向上も見られない。僕が思っていた50って、もっと紳士的で大人なはずだったのに。「あれ?僕はもうすぐ50じゃん?」っていう事実、にも関わらず精神的にまだ未熟だという現実に愕然とする。35で止まっているから、50間近なのに切迫感が無い。だめじゃん。

僕にとって大切なものは何だ?やるべき事は何だ?やりたい事は何だ?思い残している事は?何をすれば満足出来る? 精神的に35の僕には未だに良く分からない。まぁ、常に死ぬ死ぬなんて考えてたらストレスで本当に死んでしまいそうだから、適当な方が良いのかもしれないけど。