シングル スマイル

目指すのはジャンガリアンな生き様

僕が山に行かない理由

 

 

 

週末に近くの低山のハイキングコースを歩いた。5月の終わりの晴天。初夏を思わせる様な陽気だけど湿度を帯びていない空気は爽やかで、僕は楽しくて仕方が無かった。何て幸せなんだろうって思った。「幸せ」と言うか、充足感と言うか、何とも言い難い満たされた感じ。何で幸福感を感じるんだろ。山を歩くんだから身体的にはしんどいのに。自らの意思で自らの身体を動かす事が幸せだと思うんだろうか。

 そんな事を独り歩きながらぼんやりを考えて居たら、ふと気付いたんだ。何で僕が山に行かないのか。正確に言うと「あんまり山に行かない」になるけど。 それは多分「自分独りだけが幸せな思いをする事に引け目を感じる」からだ。こんなに楽しくて、こんなに幸せで、自分だけこんな思いをするのは申し訳ない、って。以前素晴らしい山行を経験した時に「全てに対してありがとうしかない」と書いていたけど、なるほど合点がいく。

だからと言って家族を連れては行けない。僕が幸せだと思う事が、家族にも幸せだとは限らない。次女は何となく楽しそうだけど、自分から行きたいと言い出さない所を見るとそこまでのモチベーションは無いみたいだ。奥さんと長女はリフトやロープウェイとかなら、という感じで言わずもがな。

四六時中家族一緒に過ごす事が家庭円満であるとは思わない。みんなそれぞれ趣味嗜好が有るから、四六時中一緒では何かと無理が出る。だから、別に僕が独りで山に出掛けた所で家族は何とも思わないだろう。一緒に行こうって無理強いされるよりは勝手に独りで行ってくれた方が余程マシだと。だけど僕は山で独りで幸せな思いをして、そこはかとない罪悪感を感じるんだ。僕だけが幸せじゃいけない。家族も満たされた時間を過ごして欲しい。それで週末は子供の行きたい所や家族の用事を優先させるし、家族で出掛けられる時は一緒に出掛けたりして、そういう時間を何度か経た後に「そろそろ独りで山行っても良いかな?」って思うんだ。

以前所ジョージに関する記事で、奥さんが所さんに「(休日に家に)居ても居なくてもどっちでも良いよ」って言ったら「じゃあ一緒に居る」って答えた、という様な記事を見掛けた事があるんだけど、それが何となく理解出来る。僕は余暇を自分の為だけに全振りする事は出来ない。「別に良いよ」って言われても多分出来ない。だからメリハリをつけるんだ。家族と過ごす時は家族に集中するし、独りで出掛ける時は独りの時間に集中する。それは家族が望むからとか、家族の為とか、そんな事じゃない。所詮は自己満足でしかない事など分かってる。僕自身が納得したいだけなんだ。心底自分が納得していなきゃ、本当の充足感は得られない。所さんのエピソードは、そんな意味なんじゃなかと思った。

毎週の様には山には行けない。でも、それもそんなに悪くない。充足感は山に有る訳じゃなく、自分の中に有るんだから。